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2011年4月 4日 (月)

三陸町越喜来のお見舞い。

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 私の母校は、岩手県大船渡市三陸町です。ここに北里大学海洋生命科学部(旧・水産学部)があります。

 私は8期生、卒業後28年経ってますから今年の卒業生は36期生ってことになりますか。

そしてこの越喜来、今回の津波で被災しました。

卒業生としては居ても立ってもいられない気持ちは、みなさんと同じです。

何かしてあげたい。でもどうすれば、最良の方法は?現地の情報はまったく入ってきませんでした。

3月下旬、東北自動車道の復旧が終わり全線開通したのをきっかけに、1期先輩の長岡さんが、三陸へ車を走らせました。計画停電の最中だったので、地元でガソリンが買えず、途中の高速のサービスエリアで2時間並んで満タンにしたそうです。

そして帰って来てから、浦浜地区と呼ばれる場所の写真を送ってもらい(ブログ掲載済み)愕然としました。

「テレビで見るのより何倍もショックだった。」と長岡さん。

現地では物資は結構届いていたが、電気が復旧していないので、夜は真っ暗。

食料よりもろうそくと電池、そしてガソリンを欲しがっていると教えてくれました。大船渡市内ではガソリンは買えるようになったが、こっちのように何時間も並ばないと買えない状況だと。

私も三陸へ行ってきました。表現が中学生の作文以下になってしまったかもしれませんが、現地情報としてご覧ください。

 三陸町越喜来を浦浜と呼びます。越喜来半島の根元南側にあります。4月1日のフジテレビで浦浜川の脇にあった越喜来小学校でできたばかりの避難通路を通ってスムーズな避難があり、生徒全員が助かったと言う話が放送されていました。私が見た情報では越喜来地区はそれが初めてでした。

 その半島の中間あたりに位置する崎浜はさらに田舎なので、情報は全然ありませんでした。

 私は三陸(私たちは現地をそう呼びます)行きを決心し、取り急ぎ、ろうそくと電池を探し、そして自分だけでは無理だと思ってちょっと離れた場所に住んでいる人たち、8期の同級生や何人かの釣り仲間に頼みました。地元で出来る限りの調達もしましたが、食料などの物資は足りているとのことでしたので、モノを絞りました。

 仲間からはたくさんのろうそくや電池が集まりました。

 ガソリンもスティールタンクを農家から借りてきて(耕運機用に持っているのです)、運ぶことにしました。

 ところで今回の災害について、さまざまな情報がネット上で流れています。YOU TUBEで津波の動画を見ると事実としてはスゴイ光景が見られます。(越喜来津波で検索)

 

しかし被災者支援に当たっての意見や考え方は様々です。

そのどれが正しいのか、憶測なのか、ガセなのかが分からない状態でした。また本当に欲しい情報がその時点ではどうすれば手に入るのかわかりませんでした。

井田先生が支援物資を届けに行ったら,ありがたられなかったと言っていたのでそれも気になりました。 行くとかえって迷惑になるのではないかとも、、、。遊びじゃないですからね。

 義を見てせざるは勇なきなり

 私個人が車1台で行ってできることなんてたかが知れていますね。とにかく三陸へ行くのだ。物資の支援と言うより、陣中見舞いにと自分に言い聞かせました。

出発間際には家内からテンションあがっているから気を付けてねと言われてしまったほどですから、、、。

  東京羽村の家を出たのは4月2日の午前1時過ぎ、高2になったばかりの長男を乗せ、プリウスで出発。プリウスは燃費がいいので、満タンでかなり走れるはずです。

 長岡さん情報では帰路の上りの高速ではガソリンは入手できるとのことでした。

8期生の仲間たちも一緒に行きたいと言っていたのですが車に乗れません。

 現地へ行けない仲間たちの多くは、ガソリンが手に入らないことを懸念していたので行動に移せなかったんだと思います。ちなみに前週に行った長岡さんはインサイトでした。

 東北自動車道の一関インターを降り、陸前高田、大船渡経由で新三陸トンネルをくぐって浦浜へ。

 途中の一関市郊外では、ガソリン購入の車が並んでいました。

 陸前高田市はテレビで何度も見ていましたが、町がなくなっていました。

大船渡市内も同様でした。よく買いものに行った、スーパーマーケットのマイヤ、お土産で有名な「かもめの卵」のさいとう製菓、そして釣り具屋のフィッシングサンゴも被災していました。

幸いなことなのか、大船渡市では自家発電で営業を再開したと言うスタンドでガソリンが買えました。

この時点で550km走って、27リットル。満タンにしたのでこれで帰京できます。

スタンドの方に聞いたら3日前まではめちゃくちゃ忙しかったけど、昨日から暇ですと言ってました。

 そして浦浜へ、長岡さんの写真を見て覚悟していたものの、実際に自分が知っている土地の変わり果てた姿を見るのはショックどころではありませんでした。

ガレキは相当片付いているようでしたが、それでもまだぐちゃぐちゃになっている個所がたくさんありました。

コンパ(飲み会)でお世話になった佐々木旅館も。確か野球部はめちゃしすぎて出入り禁止だったような、、、。思い出しましたか?

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 まずは3年生、4年生の時にお世話になった星アパート方面へ。そしてその裏に住んでいる隊長こと及川素一さん宅を訪ねました。

隊長は庭で奥様、息子さんと一緒に作業をしていました。

「こんにちは、隊長!奥山です!」と車から挨拶すると、

「おお!」と笑顔で迎えてくれました。隊長の家の前までガレキが積み重なっていました。

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津波は隊長の家の床下ぎりぎりまで押し寄せたそうです。隊長は水産学部6期生、ご実家は浦浜で「よこがけ商店」というスタンドをやっているので、覚えてらっしゃる方も多いでしょう。写真の右下で被災しました。

及川隊長からいろいろと情報を聞き、大学の対応が素晴らしかったこと、残念ながら亡くなった方のこと、、。そして隣人の星さんは浦浜川上流の住宅で新居を構えた娘さんのところにいること、、、、、。

被災直後の夜はろうそくの生活だったそうですが、昨日発電機を手に入れて、今は電気が使えること、、、。

その頃長男は越喜来小学校へ行き、生徒の命を救ったと言う非常階段も撮影してきました。

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及川隊長の家から星アパートを見ると、流された軽自動車が、、、。

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右が星さんの家です。(写真上)

「今から崎浜へ行きます。」と言ったら、隊長さんが「後で崎浜情報を教えてほしい。」とこのこと。

物資は十分にあると言う隊長でしたが、8期生のみんなからですと、電池、懐中電灯などを渡して崎浜へ。

ガソリンも星さんの家にと言うことで、長男が働きました。

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浦浜の街中は、それでもガレキは片付いているのでしょうけれど、私の知っている町とは別のものでした。建物がないので、風も吹きさらしていました。埃も多く、歩いている人のほとんどが、マスクをしていました。

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写真は竹生荘と星アパートを写したもの、真ん中の白い家の二階の東南に私は住んでました。

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三陸駅から浦浜を見ると、、、、。

浦浜川も単なる溝になってました。

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車は一路崎浜を目指します。

銀鱗荘を過ぎ、崎浜入口の丘の上で車を止め、「お父さんが一番好きだった景色だよ。」と車を降り、崎浜港、鬼間ヶ崎を見ると、、、。

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赤灯台がありません。

そして崎浜へ降りると

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中島商店です。「どうもね~!」とバイクに乗って笑顔で走っていたオヤジさんは奥さんと一緒に亡くなったそうです。(合掌)

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高さ8メートルの堤防を波が越えてしまったのです。鋼鉄の門が破られ、漁協の建物も。

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2年生の時にお世話になった遠善アパートと商店(酒屋)は跡かたもなく、、、。大家さん

一家は、その上のお寺のほうに逃げて大丈夫だったそうです。

そして崎浜メインストリートを抜け、まず先に向かったのは大学、、、、、。

ではなく、沖網という定置網漁場の岩城一男さん(故人)のご自宅へ。学生の時は本当にお世話になった漁師さんの家です。

 娘さんご夫妻が家を流されたそうで、避難してました。

岩城さんの奥さんもお元気で、我々親子を歓迎してくれました。

「入って入って。」と言われた炬燵(こたつ)が暖かったので「え?、電気、自家発電してるの?」と聞いたら、

「七輪煉炭だよ。」と教えてくれました。覗いてみると掘り炬燵の底に設置してありました。

暖房も石油ストーブを物置から出してきて使っているそうです。ファンヒーターは使えねえからね。と苦笑してました。

 娘さんのご主人の及川剛さんは漁協が運営する小壁漁場定置網の船員で、ご夫婦でいろいろと震災のことを教えてくれました。

 大船渡は津波の高さが3mと言う発表だったので、とりあえず車でちょっと高台へ逃げ、「ここまでくれば大丈夫だろう。」と車を降りて振り返ったら、波がさらに迫って来て、さらに上へ逃げた。という命からがらの話。車は流されたけど、うまく電柱?に引っ掛かったので、後でバッグなどを取りに行けたとか。(ちなみに車は廃棄)

「みんな、こんなに高い津波が来るとは思ってなかったのよ。」と

私が学生の頃、高台にある岩城さんの家(つまりここ)に何度も遊びに行ったり、ごはん食べさせていただいてました。かなり急な坂を上って息を切らしながら

「なんでこんな不便な場所に立てたのですか?」と、聞いたら

「ここなら津波は来ないからね。」と言ってたのを思い出しました。

 岩城さんらの話では、大船渡が提携する内地の町から物資がすぐに届き、家を流された被災者には食事もモノも提供されているそうです。ただし野菜が全然なくて、買い出しに行っても制限があってねぎは一家で一束、、、、と言う状況だそうです。

ただしワカメなど海の幸は備蓄が結構あるそうです。

「そのうちガソリンもなぐなって来てね。」と言うので、

「ガソリンあるよ。」と給油開始。

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ガソリンはたくさんありませんからできるなら知り合い、岩城さんの周辺の人に、と言ったら、救援物資を配って回る方にも話が行って、その方の軽トラにも給油しました。

及川剛さんの案内で避難所になっている公民館へ。崎浜小学校の校庭を突っ切って、、、。

そこには「がんばろう崎浜」の文字が、、、。

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車に満載したつもりですが、いざ降ろしてみるとこの量でした。早速仕分けして、、、。

ティッシュやタオルは小分けにして「何枚」と書いておきました。

発泡スティロールの中はすべてろうそく。段ボールの箱の中には友人が送ってくれたサニタリー用品も。

我が家にあった釣用長靴も全部持って行きました。

「瓦礫を歩いたから靴底に釘で穴があいちゃってね。」と長靴が重宝されたのは嬉しかったです。

「みんなが心配して来てくれるのがうれしいよね。」と避難所の方々もおっしゃってましたよ。

物資はやはり充実しているようです。

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これだけ届きている物資ですが、どれだけの期間、持つのでしょうか?またドバッとあってもどう配分するのでしょうか?

状態は深刻で、復興には長期戦になりそうです。

「この公民館にも被災直後は100人ぐらいいたんですよ。」と言うのを聞きましたが、今は岩城さんのところのように、高台にある親せき宅へ避難したりして、いるそうです。

ここの電力は大学が提供した発電機で賄われていました。

みなさん、助け合って元気にしていました。絆、つながり、などと言われていますが、まさにその通りです。

昼食は十分な食料を持っていったのですが、外でお湯を沸かすと鍋の中に埃がたくさん入りそうで、、、、。

「家で食べて行きなさい。」と言う岩城さんに甘えて、こたつに入って、、、。さらに津波の話や避難生活の話をしていると、及川さんが津波を撮影したのを見せていただきました。

それを赤外線でいただき、ブログに使ってもいいと言う許可を得て、、。それがこの下の写真です。

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そこには3階まで海水に浸かった漁協や街並みが写っていました。何枚もあるのですが、1枚で十分かと、、、、、。

 また震災の話ばかりではなく、漁師の漁業生活の話などなど、いつの間にか、お見舞いに行った私たちが「心配いらないから。」と元気付けられているようでした。

 そう言えば最近は学生が船に乗りに来なくなったな。と言ってましたね。何年か前に朝日田先生が連れてきたのが最後だったな。とか。

 私たちの世代は、井田先生が「迷惑だから行くな。」と言っても行きました。

 漁が刺激的で、漁師の怖そうなおじさんたちと会話をするのが嬉しくて、実は怖いのではなく、声が大きいだけだったり、と言うことも分かって楽しかったです。船の上なので危険もあるから漁師は怒鳴るわけです。またエンジンの音よりも大きい声で放さないと聞こえないから声も大きくなるのです。

あの頃はダイスケ(キングサーモン)なんかも入って凄かったな。今はサケが不漁でね。昨年はサワラが入ったり、鰤が大漁だったりしたよ。そう言えば黒マグをは200kgが入ったな。と及川さんが写メも見せてくれました。デカかったですよ。

復興したら定置網に乗りにおいで、と長男と約束していました。

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岩城のおばちゃん左から2番目、と及川夫妻と。

食事後、クーラーボックスと食料を非常食にと岩城さん宅に置いて、大学へ。

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車がいっぱい置いてあるので一瞬「どうしたんだ?」と思いましたが、被災した学生が、ここに車を置いて相模原に移動していることを思い出し、納得。

大学の災害対策本部では、私たちの先輩でもある奥村教授が指揮をとっていらっしゃいました。被災後ずっとここに詰めているとか、、、。

復興については、大学側の決断もあるだろうけど、まず崎浜、浦浜が復興し、大学、大学生を受け入れる町として機能しないことには、、。とのこと。

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もしかしたらこの大学を受けるかもしれない息子を紹介し、挨拶を交わして奥村さんと別れた後は、息子に敷地内を案内し、浦浜へ戻りました。

浦浜へ戻ると、及川隊長が、星アパートのおばちゃんのところに連れて行ってくれました。娘さんが佐藤さんという方にと結婚し、そこへ避難しているとのことでしたが、行ってみたら、その家は浦浜川のちょっと上流の朝日田先生の家の2件隣りでした。

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おばちゃんも78才になられたとかで、28年前は50歳。今の私たちの年齢ですね。

元気そうで何よりでした。

「上がって行きなさい。」とここでもお誘いを受けましたが、そろそろ帰らなくてはならない時間でしたので、、、。上がっちゃうと懐かしさで、居坐っちゃいそうで、、、。

「元気でいてね。」と握手して、浦浜を後にしました。

その後、大船渡、陸前高田、気仙沼(ここも大変な被災地)経由で一関インターから高速に乗って、合計約1200km、出発してから24時間の後に帰宅しました。

翌日、電話番号を交換した及川隊長が電話をくれました。

「来てくれてありがとう。物資も十分足りてるって言ってたけど、あのろうそくや電池は、欲しい人がたくさんいて助かったよ。」と

「今日、大船渡のほうに行ってきたけど、もう普通の生活を始めている人もたくさんいるのね。まして東京の人からすれば、遥か遠方のできごとだから、映像は凄くてもピンとこない人もいるでしょう。」

「今回、来てくれてホントにありがとう。別に物資を届けるとかそんなのは気にしなくていいからさ。来てくれるだけで嬉しいよ。みんなが、私たちのこと心配して応援してくれているという言うことが分かっただけでも自分たちの励みになるから。息子さんにもお礼言っといてね」と話してくれました。

行ってよかったな、本当によかったなと、思いました。

長くなりましたが、以上で報告を終わります。

 頑張れ崎浜、頑張れ浦浜、そして被災したすべての地域の方々に応援エールを送りたいと思います。

また不幸にして災害でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、お悔みもうし仕上げます。

現地の情報が出ているページ

頑張れ、越喜来! 卒業生が急きょ作ったページ。この中にもたくさんリンクが出ています。

北里大学海洋生命科学部三水会 同窓会のページです。

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